ELYSION Ⅵ ⑦


「なんですって!」

兄さまっ!と青い顔をして走り出そうとしたケイナの腕を掴んで止めたフェイロン。

「そうか…そういう事か……」

怒りに任せて今にも炎を吐きそうな胸の内を必死に抑えながら、口から白い煙を吐き出した。

「どういう事ですか?シャオ兄さまが誘拐されたのですよ…!」

「…あいつが誘拐などされるものか。近づこうものなら即座に細切れにされるわ」

ふー、と深い息を吐いて怒りを抑え込んだフェイロンは、苦虫を嚙み潰したような顔をして言った。

「それは大げさですけれど、何かしらやり返しそうですね」

ケイナは確かに…というように苦笑いを浮かべた。

「つまりは、我らはどちらにも利用されていたという事だ」

*

 

「アハハハッ!今頃、みんなびっくりしてるだろうナー」

悪臭漂う水たまりを蹴飛ばし、なんとものんびりした口調でそう言ったのはシャオロンだ。

彼は朝の職務が終わって次の仕事に向かう、ほんの一瞬の間に護衛の兵士を撒いて抜け出していた。

もっとも、着替えの為に部屋に戻った時に一緒に入ってこようとした兵士を拒否して窓から…。

という古典的なものなのだが、これがフェイロンとケイナが相手ならこうはならない。

「二人にはワルいと思うケド…あの二人は目立つから、ついてこられちゃ困るんだヨネー」

微塵も悪びれていないシャオロンは笑う。

一人で行動する、その為に二人にはハツとの約束の場所で待っているように言ったのだ。

要するに、厄介払いだという…。

「いや、でもこれ、思ったよりクサッ、ホンットくさっ!」

シャオロンは足元の汚水を勢いよく踏んでしぶきを散らしながら、右手をひらひらと左右に揺らした。

すると、下水中を漂っていた風が一か所に集まり小さな鳥の形を作っていく。

シャオロンはその白い鳥を指先に乗せると勢いよく放った。

元来た道を飛んでいく鳥を見送り、また歩き出す。

「あークッサ、たまんないネ。こんなところに居られるジークをソンケイするヨ」

やれやれ、というように進むシャオロンは自嘲気味に笑った。

「まァ、ハツとの約束をすっぽかしテこんな所にいるボクも変わらないカ」

昨日、夜に助けを求めて来たハツの事がずっと気になっていた。

貴族でもないのにレイズに化ける魔法が使えていた事、ドアの外にあった気配は知っているハツのモノだったけれど、どこか違うものだった事。

何よりも、あのべったりと貼り付けたような偽の表情。

そして、仄かに漂っていた血の臭い。

落としたつもりなのだろうが、人間よりも感覚が優れている亜人にはハッキリとわかっていた。

 

真新しい、人間の匂い。

あれは間違いなく、ジークの血の匂いだ。

「あーあー…嘘だったらよかったのにナァ……」

シャオロンはそう呟くと、寂しそうに眼を伏せた。

昨日、ケイナにジーク達が水路に入っていった事を聞いていたとはいえ、ここまで来るのに時間がかかってしまっていた。

レイズやジークが、どうなったのかという話も耳に入ってこない。

もしかしたら二人とも生きていないかもしれない。

シャオロンは俯くと唇を噛んだ。

自分の立場を公にした事で、どうしても亜人全体の事を優先させなければいけなくなった。

そうする事を選んだのは自分。

それについて悔いはないけれど、一番力になりたいときに飛び出せないもどかしさもある。

ましてや、ここは人間の住む土地であり、自由には動けない。

ジークはきっともう…。

「ううん!」

そう思いかけたシャオロンが勢いよく顔を上げると、ちょうど目の前で通路が二つに分かれていた。片方は複数の人間の匂いが混じった道、片方は少ない人数の匂い。

シャオロンは右手を顎にあてて少し考える…が元々、細かい事を考えるよりも先に行動した方が早いと思っているので、すぐに切りかえる事にしたようだ。

「うん、まぁいっか!」

と、そう言ってニッカリと笑って足取り軽く片方へ進んで行った。

相変わらずの汚臭に耐えながら進んで行くと、やがて流れが急になり水の量も増えていくのを感じた。

どうやら、一か所に水が集まるダムのような場所に出てきたようだ。

レオンドール中の下水道を流れる水が集まっているここは、さらに奥深くへと水を集めて魔力で循環させているようだ。

「ほえー…なんかすごいネ…仕組みなんてわかんないけド、これを亜人の所にも作れたらみんなきれいな水が飲めるジャン」

水流に足を取られないように両足の裏に力を込めてを踏ん張っているシャオロンは、徐々に濃くなっていくジークの匂いを感じていた。

ドドド、と勢いよく中央の穴へと落ちていく水は、細かいしぶきが巻き上げられて煙のようだ。

辺りを見渡したシャオロンは、頭が魚の形をした魔物が何かの足を掴んで引きずっているのを見つけた。

頭部が魚の頭で、体は筋骨隆々の人間のもののように見える…ぎょろぎょろとした目玉が怖い…が、そのアンバランスさと、下半身を守る白いフンドシが何とも言えない気持ちにさせる。

「……」

シャオロンは死んだ魚のような目でそれを見つめると、奴が運んでいる荷物の正体に気付いて目を見開いた。

水面から時々見える、金と黒の髪にこのクソ暑い中でも肌身離さず身に着けていたマフラー。

ゴのつくアレを彷彿させるその姿は間違いなくジークだった。

「ジーク!」

シャオロンは嬉しさと不安の混じった顔でジークを呼んだ…が、反応はない。

頭が魚の魔物は隣の排水路に立って、じっと穴の底を見つめていた。

シャオロンの頭に最悪のシナリオが浮かぶ。

「まさか…あいつ、あそこから落とすつもリ…?」

そうはさせないとシャオロンが足を踏み出し、魚の魔物に殴りかかろうとした。

その時だった…。

水の中だというのも忘れて勢いよく踏み出したシャオロンは、両足に力を入れた反動で足を滑らせてしまった。

そして足を挫いた流れで魚の魔物の首に強烈な蹴りを入れ、勢いよくヌメヌメした顔面に尻から乗ってしまった!

「いっ!ギャァアアアアアッ!」

尻に感じる水の冷たさ!

いや、それ以上の不快感に悲鳴を上げたシャオロンだったが、気付いた時には激しく水が落ちる穴の中だった。

かろうじて魚の魔物の手からジークを取り返したものの、尻が顔面に直撃していてそれどころではない。

落ちれば間違いなく死が待つ状況…もう、シャオロンに残された道は一つしかなかった。

手のひらに風を集めて落下の勢いを弱めながら、容赦なく上から叩きつけてくる水に耐える。

それでも流れは激しく、転覆は免れたがこのままでは落ちて来た水で沈められてしまう。

「最悪、さいあく、サイアク!この、§Δ〇×…!」

この先は龍神族の言葉で早口で何か言っているが、おそらくスラングだろう…。

尻の下に敷いた魚の魔物を浮き替わりにし、適当な分岐した通路へ風を使って爆走していく。

もはや乗っているだけの状況なのだが、一刻も早く下りたい…。

時折、エラ呼吸をしようと魚の魔物の頭が動くのが物凄く不快で、その度にこの場で今すぐ刺身にしようかと思う程だった…。

「このまま流れていけば、きっとどこかに続いているはず…!」

もはや上っているのか下っているのかよくわからない感覚に襲われる。

シャオロンはそう呟くと、真っ暗になっていく通路の先を祈るように見据えた。

 

そして、その時は意外に早くやって来た。

下流へと押し流れていく水と、風による加速で暗い下水道を物凄い速さで進んだ先に待っていたのは眩い光。

半ば吐き出されるようにして放られた先の目を刺すような光に怯んでしまう。

そのまま着水したと同時に、潮の匂いがした。

「…ここは…?」

思わず頬についた水をジークのマフラーで拭ったシャオロンは目を丸くした。

青い空とどこまでも続く水平線…遠くには暗雲が浮いているが、波は穏やか。

間違いなく聖堂都市レオンドールの外に広がる、波と鳥の声が聞こえるのどかな海だった。

東の領地と南の領地の間にあるこの海は、新鮮な魚介類が採れる事でちょっとした有名な場所なのだが、そんな事をシャオロンが知るわけもなかった。

プカプカと漂う魚の魔物の顔面に乗ったままのシャオロン。

ハッと気付いたようにジークに呼びかけた。

「ジーク、ジーク!目を覚まして!」

ねぇ!と体を揺すって水で濡れてきつく締まっていたマフラーを緩めてあげる。

けれど、固く閉じられた瞼が上がる事はない。

シャオロンは、頭に浮かんだ事を振り払うようにジークの服を脱がせ心臓に耳をあてた。

冷たくなってしまった体からは絶望の二文字を想像してしまう。

「い…いやだ…ジーク…約束したじゃなイ」

それを認めたくなくてシャオロンは 必死に呼びかける。

頭ではわかって平静を装っていても、実際に現実となってしまったものを見ると取り乱してしまう。

「どうしよう…どうしたらいイノ……」

魔法が使えない亜人は、奇跡など起こせない。

冷えたジークの体を炎で今すぐ温めてあげる事さえ出来ないのだ。

途方に暮れるシャオロンは目に浮かんだ涙を零した。

「ジーク…死んじゃったよォ……」

か細い声が消えそうになった時、突然どこからか声が聞こえた。

「その芋は死んでないですギョ」

ものすごい渋い声で、確かにそう言った。

「誰!」

シャオロンは咄嗟に周囲を警戒し辺りを見渡した。

その時、ボコっと尻が浮いた。

「この高貴な気配はもしや、龍神族サマじゃないギョか?」

「え…え?」

尻の辺りでモゴモゴと何かが動いていたのに気付いたシャオロンは、この世の終わりを見たかのように顔をひきつらせた。

まさか、この魚は魔物じゃなくて亜人だったなんて…。

亜人の王でありながら気付かなかったなんて口が裂けても言えない…。

ついでにあまりの不快さに刺身にしようとしていたなんて、もっと言えない…。

「た…助かった…よ…ウン」

「オオー!やはりあなたは龍神族サマ!」

光栄だギョ!と大きな目を輝かせる彼に背面泳ぎで砂浜に連れて行ってもらう間、シャオロンは彼を直視できなかった。

「彼」…マーマン族もまたレオンドールで奴隷として扱われており、命からがら逃げだして下水道に隠れ住んでいたのだと教えてくれた。

「…そ、それもだけど、さっき言ってた彼がまだ死んでいないっていうのは?」

「我が一族に伝わる気付けの術があれば、大丈夫だギョ」

砂浜に寝かせていたジークを抱き上げたマーマン族の男は、そう言うとシャオロンをじっと見つめた。

「ただし、この術は一緒に一度しか使えないんだギョ」

「そ…そんな……」

彼はそれ以上なにも言わず、ジークをじっと見つめた。

シャオロンとしてはジークが助かるのなら一刻も早く術を使って欲しい。

けれど渋るその理由が、彼が代償として死んでしまうのだとしたら…同胞に死ねと言う事になる。

同胞を見殺しにする事も、ジークを諦める事も出来ないシャオロンは何も言えなかった。

固唾を飲んでこの場を見守るしか出来ない。

「…さぁ、やりますギョ」

神妙な声でそう言ったマーマンの男は、シャオロンをじっと見つめると頷いた。

「…ごめん…つらい選択をさせて……」

やはり代償は大きいのだろう…シャオロンは目を伏せる。

が、次の瞬間マーマンの男の幸せそうな笑顔が目に飛び込んできた。

「いいえ、自分でこの芋を嫁にすると選んだんだギョ」

とても幸せそうな声でそう言ったマーマンの男は、ジークの顎を掴むとおもむろに自分の顔を近づけ……。

これが何を意味しているのか瞬時に理解したシャオロンは、何も言わず目を逸らしたのだった。

ジーク・リトルヴィレッジ、結婚おめでとう…。